父の日によせて

父のこと

今年ももうじき、父の日がやってくる。

父が逝ってから今年で9年になる。

穏やかで寡黙な人だった。

幸いなことに定年後も職を得ることができて、73までよく働いた。

お酒はほとんど飲まず、コーヒーが好きだった。

ずっと昔のことだが、家に来た時など、「お昼、何がいい?」

「うん、パンがあればパンとコーヒーでよかよ。」

「パンとコーヒー❓」

答えはわかっているのに、私もいつも同じことを聞く。

父はジャムよりバターが好み。

熱いコーヒーをズズーッと音を立ててすする。

そして

「あ~、 やっぱりインスタントじゃなかコーヒーはおいしかね~❣」

自分の家ではもっぱらインスタントコーヒーだった父。

父が生きていたら、カフェのオープンを喜んでくれたことだろう。

部屋の片隅で、新聞を読みながらコーヒーを手に取る姿が目に浮かぶ。

母のこと

先週末、母が緊急入院した。

救急車で運ばれた病院で40度の高熱を出していることがわかり、腎盂炎の疑いありと。

午前中は近所の泌尿器科もある内科を受診したのだが…なぜわからなかったのだろう。

何かいつもとちがうなあ…ぼうっとしていて視点がおかしい。

まるで目が見えていないような…

「お母さん、目、見えてる?」

「見えてるよ…」こんなやり取りを何度もした。

会話が続かない。

母の顔を見るのは、母の日に一緒に食事をして以来、パリから帰って初めてだった。

しゃべっている言葉がちんぷんかんぷん。

もしかして、ついに痴呆が始まったのか…

しかし、こんなに急にくるものだろうか。

そのうちにだんだんろれつが回らなくなり…

CTではわからなかったが、週明けにMRI検査の結果、脳梗塞を発症していることがわかる。

言語を司る場所がダメージを受けて。

腎機能が低下しているから脳梗塞の治療ができないと言う。

1日にして、自分の年齢も誕生日もわからなくなり、会話が成立しない。

今年、91歳になった母は弟とふたり暮らし。

ひとりでの外出は無理があったが、家の中では手押し車や手すりにつかまり、トイレも自分で。

時には自分の好きな簡単なものは調理もし…週3回はディサービスに通い、週2回は掃除洗濯など、ヘルパーさんのお世話になりながらも身の回りのことは自分でしていた。

私は休日に食事を作って持って行ったり、実家の台所に立って母の好物をこしらえる程度。

私はよく思ったものだ。

自分が母の年齢になった時、母のようにできるものだろうか…

おそらく、できないだろう。

そもそもそんなに生きることができるだろうか。

私がもっと早く病院に連れていっていれば…

ためらわずにもっと早く救急車を呼んでいれば…と思わずにいられない。

母はコーヒーも紅茶も好まないが、母親特有の心配はしていても、カフェのオープンを楽しみにしてくれていた。

月に一度の定期検診に連れて行くと、長年の主治医に「娘が喫茶店をするとですよ…先生、行ってやってください」と宣伝。

誰よりも私が長崎に戻ったことを喜んでくれた。

それもまだ半年しか経ってないというのに。

不思議なことに、「はい」と「ありがとう」はハッキリ言える。

きのうは、途切れ途切れにだが

「なんでね~~こんななったとやろうかね~~」と何度も。

「お母さん、脳梗塞にかかったのよ。 軽いからリハビリでよくなるよ」

「あら~脳梗塞ってや~脳梗塞ね~~」と何度も。

なんでねぇ~はがいかねぇ~(歯がゆいの意)…と何度も。

言葉を出そうとしてもなかなか出てこないと終いには、ふふふ…と笑い出す。

その笑顔のかわいいこと。

私は初めて母をかわいいと思った。

子どもには厳しく、恐い母だった。

我が家の息子が

「おばあちゃん、今の時代は100歳だよ❣」と言った言葉を励みに、100歳が目標だとよく言っていた母。

遅かれ早かれ、老いれば誰もがいつかは辿る道。

わかっていても、こんな姿になった母を見るのは胸が痛む。

この現実をどう受け止めればいいのか。

自分の鈍さ、至らなさが悔やまれる。

今年もらっきょうを漬けるつもりでいたのだろう。

生協に注文していたようで、3キロも届いていた。

らっきょうなんて自分で漬けたことはないが、今年は母の代わりに漬けてみることにしよう。

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